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第二次世界大戦、沖縄防衛軍は第32軍といわれ、11万6400人の戦力が従軍していた。
鉄の雨とか鉄の暴風といわれ、地形が変わるほどの砲撃を受け、
日本の死者・行方不明者は18万8000人余という悲惨な戦であった。
この32軍の部隊はインターネットで32軍を検索すると陣容などが事細かに出てくる。
(是非、この32軍と、ウィキペディアの沖縄戦を検索して見てほしい)。
300人ほどの部下を率いていたと思われる部隊長に2人の知った名前がみえる。
その一人は岩波壽(ひさし)大尉、第4遊撃隊の指揮官を務めた。経歴は下記の通り。
諏訪市中洲中金子の岩波家に長男として生まれ、
旧制諏訪中学校(現諏訪清陵高校)、陸軍士官学校を卒業。
陸軍中野学校を経て沖縄で終戦を迎え帰郷。
スワテック建設に入社し、社長、会長を経て同社相談役を務めた。
その間、県建設業協会副会長、諏訪商工会議所副会頭など業界・地域の要職を歴任。
23年2月24日、91歳で亡くなられた。
3月1日に葬儀があって、参列していて驚いた。(実はそれまで経歴を知らなかったのです)
岩波壽氏とネットで検索すると、その沖縄での戦いぶりが出てくる。
是非これも読んでもらいたいと思う。
さて、もう一人は三苫繁実氏である。
要塞建築勤務第7中隊指揮官・三苫繁実中尉。
300人余を率いて要塞の建築に沖縄を走り回っていたのでしょうか。
最後は銃を持って戦ったのでしょうか。砲撃にやられたのでしょうか。
応召のシステムはよくわからないが、
いわゆる赤紙の他に白紙と青紙というのがあったそうで、岩波氏は職業軍人であり、
赤紙で応召されるのは一般人、
特殊技能のためにピンポイントで必要なところに配属される様、白紙で応召されていたのでしょうか。
県庁の勤務に見当たらない日々には、満州事変や、要塞建築の訓練のために従軍していたのでしょうか。
三苫繁実氏は戦後県庁に復職していないことを考えると、隊長として沖縄の地に眠っているのでしょうか。
そしてこの2人は、現地にて面識はあったのでしょうか。
32軍のインターネット資料中の集合写真にはたして2人は写っているのでしょうか・・・。
三苫氏のご遺族はどちらにおられるのでしょうか。
長野近辺の電話帳には三苫姓は見当たりません。
ご遺族を探してお話をお聞きしたいものです。
読者の方も三苫姓を心にとめて、どこかに手がかりがないか気にかけてください。
お二方、さらには沖縄の地に眠る方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
旧岡谷市役所庁舎
南側屋根の銅版加工破風
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其の一・完
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