所長コラム  正博の建建愕諤(けんけんがくがく) 
                  ―古今・天地東西表裏―
    
其の壱・ 旧岡谷市役所庁舎

level-1 level-2
   

歴史を伝えてくれる文献はとても貴重です。
市町村史や区史、会社の社史やお寺の寺史、個人の自叙伝。
近在のものでは岡谷市史、岡谷組の社史「夢を馳せて─努力ひとすじの野口誧一翁」、照光寺史、サスナカの宮坂昌人氏の自叙伝「赤とんぼ」、スワテック建設50年史「諏訪土木建築㈱五十年の歩み」、諏訪建設業協会の協会、団体史「諏訪建設業のあゆみ」等が諏訪地方の建築史の表裏を刻んでくれている。

旧岡谷市庁舎について書かれている岡谷市史と、岡谷組の社史の一部分を抜粋して紹介したい。

 
『岡谷市史・中巻』より引用(昭和51年・岡谷市発行、p129-130)

 庁舎新築
 平野村役場は明治三十四年の建築であって、しばしば新築が計画されたが諸種の支障のため延期となっていたが、市制施行にはぜひ庁舎新築を必要とした。この時、平野村岡谷の尾沢福太郎は十数万円を投じてこれを新築し、十一年三月二十九日村へ寄付した。それが現庁舎である。寄付採納願には左記のようにある。
        記
 一、鉄筋コンクリート鉄骨小屋瓦外部タイル張二階建市役所庁舎
 一、本館建坪   百六拾四坪 階上坪数百六拾四坪
 一、玄関建坪   三坪九合
 一、付属家屋建坪七拾六坪 階上坪数六拾八坪
 一、地下室建坪  七坪七合
 一、建坪延 四百八拾三坪六合

 平野村は尾沢福太郎の特志を表彰するため銅像建立の議を定め、本市西堀出身武井直也に依嘱し、市役所構内に建立した。


 岡谷市制施行
 三月三十日新庁舎に移転し、同三十一日新庁舎において最終村会を開いた。四月一日市役所楼上に祭壇を設け、市制施行報告祭を行ない、市内は各戸に国旗を掲揚、小学校三年生以上旗行列、その他の催しを行なって発足を記念した。
 四月二十六日市会議員初選挙があり、新庁舎楼上で投票が行なわれ、三〇名の議員が選出された。五月五日第一回市会開会、初代議長林七六、副議長宮坂健次郎、市長に今井梧楼(前村長)が選出された。名誉職参事会員一〇名は議長推薦により、四つの常設委員(交通、産業、衛生、教育)は市長推薦により議会が承認してそれぞれ就任した。
 五月二十三日市制施行祝賀式及庁舎落成式、自治功労者表彰式が中央部校庭式場で行なわれた。続いて尾沢福太郎翁の寿像除幕式が挙行された。祝賀会場には招待者・市内戸数割納税者全員等総計五、七〇〇余名が参加した。煙火・長持・旗行列・投餅その他数々の催し物があって、新市の誕生を祝い躍進を期待した。同月二十五日大日本蚕糸会第三十一回総会が、新発足した岡谷市に開催され総裁の閑院宮殿下が臨場された。市民は新市誕生にふさわしいこととして歓喜した。

 
『夢を馳せて─努力ひとすじの野口誧一翁』より引用
              (平成2年・野口誧一記念誌刊行会発行、p216-218)

 二、昭和10年~20年代に入った岡谷組
 (2)新庁舎新築工事を請負う
 野口誧一はその時の村長今井梧楼氏からは信用されていた。またすでに幾つかの鉄筋コンクリートの公共の建物の請負い工事も経験していた地元の唯一の業者でもあった。これらの条件が揃っていれば、施主の尾沢福太郎氏から仕事の受注の栄を賜ることは当然であったろう。誧一はこの記念すべき、また意義ある市役所庁舎の建設工事に対して強い使命感をもち、精魂を込めて取組んだのである。
      昭和一〇年六月着工、昭和一一年三月竣工
      請負金額 八一、〇〇〇円(セメント及び付属工事を除く)
 遅滞なく計画どおり工事を終えた。その新庁舎落成式の様子は岡谷市昭和一一年度事務報告書に次のように記述されている。昭和一一年五月二十三日、市制施行と落成式は五、七〇〇名が参加し、岡谷小学校中央部校庭で行われた。

 (3)庁舎落成式
 市制施行ニ備ヘテ去ル昭和一〇年起工シテヨリ専ラ其ノ上ニ急キタル新市役所庁舎ハ市制ニ先立ツコト三月ニ完全ナル竣工ヲ見ルニ至レリ。巨額ヲ投ゼル宏壮ナル建築ハ、輪奐ノ美ト設備ノ完全トヲ誇リ岡谷市随一ノ美観タルト共ニ県下第一ノ庁舎トシテ宣伝セラレ之レガ落成式ハ市制祝賀ト共ニ併セ行フヲ得タリ。
 巨額ヲ要シタル本市役所庁舎ヲ単独寄附サレタ本市ノ建設ヲ容易ナラシメタル恩人尾澤福太郎翁ノ徳澤ヲ永ク後世ニ傳ヘ朝夕市民ト共ニ温容ヲ偲ビ其ノ徳澤ヲ景仰セントス。壽像建設ヲ企画シ本市出身斯界ノ権威者武井直也氏ニ其製作ヲ嘱シ五月上旬之ガ完成ヲ見直ニ建設ヲ了シ市制祝賀ト日ヲ同ジユウシテ翁並ニ翁ノ一族ヲ正賓トシタ。多数貴顕臨席ノモト除幕ノ式典ヲ舉行シ各位ト共ニ深甚ナル謝意ヲ表明スル。


 (4)秀でた建物
 岡谷市助役小口文人氏(昭和四四年六月~昭和五七年三月)は折にふれ、市職員の建設関係担当者に説き聞かせていたと言う。この建物が今になっても壁に亀裂が見られない素晴らしい建築技術であり、また、北側の何本かの竪樋が冬期凍って詰まることがまだ無い。この理由は設計の段階で考えられていたか、または施行技術の巧みさの結果か、土中に埋められた排水管に竪樋の下端がよく密着しているので、冬期においても地熱が効率よく竪樋に上がってくることによるものと考えられる。それにしても、最近の特に学校の建築を見ると、大方北側の竪樋は凍結して破裂しているのが大部分である。その点此の庁舎は見習うべき点を多くもっていることなどを常に市職員に指摘していた。
 この建物も六ニ年二月でその任を終えた。岡谷市でも現在何に使用するか検討中であるが、このまま永く使用してゆくとのことである。


〔※なお、この書籍のp215には参考として、昭和12年度の岡谷市の職員数が次のように紹介されている。市役所35人、職業安定所6人、公益質屋1人、岡谷病院11人、水道部3人 計56人〕



さて、寄付をした尾沢福太郎翁の銅像が旧市庁舎の東側に建っている。

銅像も立派であるが、2920mm角の石の階3段の上に総御影石で台座、総高さ5000mmの覆屋(背後の石の厚み510mm、幅2100mm)があり、これがまた素晴らしい。左右の八角柱、庇といい、上野公園の西郷隆盛、楠木正成にもないような覆屋に納められた翁像。今風の酸性雨に侵されることもなく、70余年にわたり岡谷市を見続けている。

これだけの庇付台座の中に納めるという、全体の構想を考えたデザインの総合力に感嘆する。


   

裏側には以下のような説明文が彫られている。

   尾澤福太郎翁頌徳記

尾澤福太郎翁ハ万延元年岡谷村ニ生マル 尾澤家ハ本地製糸業ノ先覚ナリ 翁先考ヲ輔ケテ明治十一年機械製糸業ヲ肇メ明治二十七年以来尾澤組ヲ主宰シテ拮据精励漸ク具規模ヲ拡大シ全国各地ニ工場ヲ設置シ本邦屈指ノ大製糸家タルニ至レリ 大正十二年組織ヲ更メ株式会社尾澤組ヲ創設シテ社長トナリツイデ尾澤組ハ片倉製糸紡績会社ニ合併シソノ常務取締役ニ就任シ以テ今日ニ及ベリ 翁ノ斯業ニ盡瘁
(※ジンスイ・苦労を顧みることなく、全力を尽くすこと)スル事実ニ六十年ニ垂ントス 其間或ハ支那繭輸入ノ端ヲ開キ或ハ米国ノ絹業ヲ視察シテ経営ニ改良ヲ加ヘ或ハ平野村工場内ニ工女養成所ヲ設ケ之ニ私立尾澤組実科女学院ヲ併置シタル等斯業ノ発達向上ニ貢献シタル所真ニ大ナルモノアリ 翁資性温良恭謙最モ公共ノ念敦ク社会公益ノ為ニ盡クシタル所挙ゲテ数フル可カラズ 今回岡谷市ノ誕生セントスルヤ翁ハ巨資ヲ投ジテ輪奐タル庁舎ヲ建築寄附セラル 市民ノ謝意寔ニ切ナリ 因ツテ本市ハ翁ノ銅像ヲ構内ニ建テ永ク其徳ヲ後昆ニ傳ヘントス

   昭和十一年五月 岡谷市


ところで、市史には尾沢福太郎翁の費やした費用が十数万とある。
岡谷組の請負額はセメントと付属工事を除いて8万1千円とある。
設計監理料は8%とすると8000円位か。
セメントが支給品で8000円、付属工事を仮に6万円位とすると、合わせて16万円位か。
付属工事の内容がかいもく判らないのはまことに残念である。
古い庁舎の解体工事費は含まれているのでしょうか。

16万円を坪単価にすると342円となりますが、はたして・・・?

ちなみに昭和3年にできた片倉館は
浴場棟が281,407円
会館棟が159,784円   合計441,191円、
坪当たり572円かかっています。
年代と単価を考えると、342円/坪は少し安いような感じがします。

 
                                    (2011年5月17日)