所長コラム  正博の建建愕諤(けんけんがくがく) 
                  ―古今・天地東西表裏―
    
其の壱・ 旧岡谷市役所庁舎

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〔設計図と設計者〕


私がこの建物を身近に感じたのは、小学校1年の頃(昭和30年頃)、姉の絵が入選して旧市役所庁舎の2階に展示されていたのを、母につれられて3人で見に行った時である。その後何回か展覧会があって、先生につれられて行ったこともありました。昔はよく美術展に開放していたのです。
東側の入口から入ると階段にも絵が掲げられていて、会場は高い天井と、汚れたかのように濃い木の色の床、薄暗く厳かな空間を肌で感じた思いがあります。


建物の前には蚕糸公園(形が三角形なので三角公園とも言う)があって、
当時円形の平屋のお便所や、猿がオリの中で飼われていた。
中央通りの入口には、小さな古い消防の屯所に使った建物と、
今のアピタのところには、高い塀越しにレンガ造りの倉庫が林立していた。

東に向かう銀座通りをのぞくと、人だかりのしているカネジョウの店舗が、
夕方ともなると道にはりだした様な売り場の白熱灯が煌々と光り、
お茶屋や靴屋、高天酒造、傘の修理屋さん、薬師堂の山文、下駄の小川屋まで、
にぎやかな商店街が続いていた。

役所の北の諏訪倉庫は白い土壁に空襲時の迷彩用に黒く模様を塗ってあり、
夕方ともなると、とても暗く怖いイメージがあったのを覚えている。

小沢福太郎翁はこの50年余の眼の前の変遷をどのように感じているのでしょうか。



                     


平成15年6月、我社で旧市役所庁舎の耐震診断を受注した。

昭和55年に耐震設計の手法が大幅に変わった。
その後の平成7年1月17日の阪神大震災の被害状況から、
この設計法(新耐震設計法という)で設計された建物の被害が比較的少なかったことから
妥当性が検証されたとして、昭和55年以前の建物は耐震診断をした上で所定の耐震指標値を上まわるように補強することとなった。
官公庁の建物は促進する法律も整備され、学校、庁舎等、暫時、耐震診断と補強が進んでいる。


耐震診断をするには、まず建物の設計図(特に構造図)が必要で、
設計図のない建物は図面を復元するのに大変な労力がかかって大変なのです。
この旧市役所庁舎の図面は、永久保存版A1青図(青地に白抜)が残されていました。
診断用に借用して白黒反転して縮小版原図をつくった。

表紙、配置図、平面図(1・2F)、立面図(4面)、詳細図(8枚)、構造図(24枚)、建具表(1枚)、衛生設備図(1枚)、電気設備図(2枚)の計44枚。
市の許可を得て、このうち9枚を紹介する。
(博物館で公開されているそうですので、見たい人はお訪ねください)

 
(表紙)
 
(1階平面図)

(2階平面図)
 
(正面立面図)

(背面立面図)

(詳細図・左が下、右が上)

(詳細図・2階 議場)

(構造図・屋根のフィンクトラス)

(構造図・梁のリスト)


構造図をみると、土木の図面にはよくあるが、
鉄筋を一本一本積算できるように表示している。
今の建築構造は複雑になっていて、こういう図面を書く習慣はなくなってしまった。
また、設備図は水洗便所になっていて浄化槽までついているではありませんか。

今日のCADによる図面と違い、
一本一本の線に活力と風合い、手書きの図面の良さがあふれ出る素晴らしい図面である。
矩計図(断面詳細図)のカウンター、議場の家具やサッシ、破風の表現にこれだけの図面を美濃紙へ、
カラス口(ぐち)で書いたか、いやいや、やはり鉛筆で書いたのだろうかと思いがめぐる・・・。
昭和50年頃は、まれに美濃紙へ書き込んだ図面を成果物として求められることがあった。
美濃紙へ書くと、間違うと書き直しがきかないので大変気を使うのです・・・。


さて、図面枠にある設計者のサインに目が釘付けになりました。
「三苫」「青沼」「清水」「戸谷」「青沼(市)」「加藤」「芳賀」の7人。

設計母体の会社や組織の名はないものの、さて・・・一体、どこの人か。
これだけの人数を擁している組織とは・・・?
青沼姓は長野によくあるが・・・。

           図面枠を拡大。この図面には三苫、青沼と記されている


設計者はどこの誰かと、頭の中に網をはって待つこと3年余。
ある日、ついに、かかりました。

続きは LEVEL4へ─。


 
                                    (2011年5月31日)