所長コラム  正博の彫り出しもの(木彫)アラカルト     
其の十・恵比寿と大黒 ( 四代  )
   
2月15日夜、私のところへ一体の恵比寿がやってきた(写真1)。
恵比寿大黒は対になっていることが多く、同じ  の大黒(写真2)が一体あって、高さ1cmの違いなので、一対のそろいになるかと思ったが、ひのきと松、素材も違い、色合い、趣も違って対にならない。
各々どこかに相棒がいるのだろうか?


 
 写真1・恵比寿(H80mm W60mm L60mm)   写真2・大黒(H90mm W60mm L80mm)


この恵比寿の下面には、墨書で「明治十九年一月元旦彫刻〇〇〇三枚目 立川和四郎 〇」
大黒の下面には「明治十四年三月〇〇〇〇彫刻〇〇〇・・・」とある。
(〇は読み取れず)
明治19年は1886年、 40歳であるが、2年後の1886年に亡くなっている。

         写真1の恵比寿の下面


山梨県北斗市白州に「七賢」という銘酒がある。
醸造元は山梨銘醸㈱といい、経営者の北原家は1750年(寛延3年)創業以来、十二代続くとホームページに紹介されている。

10年ほど前に訪れた時、案内のお嬢さんが、七賢由来の竹林の七賢人の欄間を四代立川和四郎の作と紹介してくれた。
立川流の系統図には、細川隼人先生作①、間瀬恒祥作②、石井茂著、下絵図集のもの③、加筆の半田市立博物館編④、石井茂氏作(名刺代わり)⑤等があるが、 を四代としているもの、していないものがある。


お嬢さんに四代というのはいないはずだがと言うと、「調べておきます」と返事があった。

今回改めて七賢のホームページを見たところ、その欄間とうずらの床置が紹介されていて、立川流三代目、立川専四郎冨種刻となっている。冨種は啄斎(1817~1887)である。(三代はやはり総領の兄冨重であり、少し表現に問題ありと感ずる)

欄間は1835年に、建物新築のお祝いとして高遠の殿様から贈られたとあるから、啄斎18歳の作である。
18歳で殿様からお声がかるほど才能が認められているということが又、すごいと思う。
是非ホームページを見てください。

                                             


恵比寿と大黒は、小品で神棚や床の間に置かれ、なじみの深い彫刻であるが、
一番数が多いのは冨尚(1886~1959、湘欄の子供)、 (1847~1888)のものであろう。

(先般、諏訪市博物館の立川展で、啄斎の高さ40cm位の大きな個人蔵の恵比寿大黒を見てびっくりした。)


写真はすべて四代 の作品ですが、小さいものがとてもかわいい。

       
恵比寿大黒(ともにH60mm W50mm、Lは右の恵比寿60mm 左の大黒70mm) 右写真は下面


            
     恵比寿大黒(ともにH48mm W30mm Lは右の恵比寿35mm 大黒45mm)



            
      厨子(H220mm W225mm L120mm)入りの恵比寿大黒(H60mm W35mm L50mm)


さてこの だが、本人が署名で使っている文字は「」であり、この「 」は辞書にはない。
系統図には「冨淳」と紹介されているものが多いが、本人署名は「 」である。
この「 」の字を調べてみると「惇」が本字で「」が俗字とある。
本人は書き易かったのか、りっしんべんに立に子と書いて「 」としている。


                                     

の関わった建物はどこにあるのでしょうか。
細川先生の書籍(「立川流の建築」諏訪史談会発行より引用)を紹介する。
 

   
立川和蔵富淳

 富重の一子和蔵富淳も相当の腕があって明治十三年七月遠州(静岡県)長上郡掛塚大当町の屋台を作り、また諏訪郡豊平村(茅野市)南大塩の心光寺を建築し、諏訪市教念寺欄間に叔父の富種と共に粟穂と鶉を彫った。富淳は矢矧川や天龍川の橋桁の端木だといって恵比寿、大黒天を彫ってよく配布したのでいまなお多く諸家に蔵されている。惜しいことに四十才を一期として明治二十一年五月十九日死去した。法名を輝屋監照清居士という。

 その一子義太郎氏また西洋建築を学び京都三條烏丸角第一銀行支店のビルディングを建て後上京して東京に居住している。





さて、明治19年という年は や立川一門にとってどんな年であったのでしょうか。

1886年は  40歳、啄斎71歳(明治20年没)、床に伏していたか・・・。
父冨重(明治6年、59歳で没)、叔父昌敬(宮坂常蔵、文久3年、67歳で没)すでに亡く、その息子元三郎(一湖)は37歳、彫金に道を求めている。
啄斎の子供、冨利(明治7歳、20歳で没)、冨広(湖岳、明治5年、24歳で没)は早世し、末子の松代(湘欄、23歳)のみ生存し、子供の冨尚が丁度生まれた年である。

明治維新後、廃仏毀釈の運動の混乱から立ち直れず、後の西南戦争(明治10年)も終結したが、世の中は騒然として大変な時代だったのかと思う。
一門は早世する人が多く、寺社建築の注文もなく、一門も分散してまとまりに欠け、才能を生かしきれない環境の中にあったかと思われる。

そうした中で彫られている恵比寿大黒に、はかり知れない深い思いが感じられる。

いろんな人が恵比寿大黒を彫っているが、端正な顔のものが多い中で、 の恵比寿大黒は田舎風の愛嬌があって、微笑ましく好もしいと感ずるのは私だけではないと思う。


最後に、 の傑作、七福神(箱入り)を見てください。

   
         左から明治15年彫刻の恵比寿、大黒天(ともにH60 W50 L55)
            以下いずれも明治17年彫刻の毘沙門天、弁財天(ともにH57 W43 L25)

            福禄寿(H60 W43 L25)、寿老人(H57 W43 L25)、布袋(H45 W57 L25)
                      単位はいずれもmm 箱は桐(H100 W390 L80)


 
                                       (2011年3月24日)