所長コラム  正博の彫り出しもの(木彫)アラカルト     
其の拾五・東堀正八幡宮の彫刻
   



岡谷市長地にある東堀正八幡宮本殿の改修工事の監修(設計監理)を担当した。
東堀正八幡宮には、以前から、皇室にかかわる彫刻があるとお聞きをしていたが、
間近に見ることができたので、ここで紹介しておきたい。


後醍醐天皇の第八皇子、宗良(むねなが)親王を合祀したといわれる親王ゆかりのお宮。
岡谷市の文化財を紹介する書籍「おかや歴史の道 文化財めぐり」(岡谷市教育委員会発行)
には、以下のように書かれている。

 
宗良親王

宗良親王は後醍醐天王の第八皇子で、御兄護良親王の亡きあと、南朝の中心となって諸国を奔走され、勢力の挽回に努められた。和歌をよくし、歌集「李鼻集」があり、比叡山延暦寺の天台座主(延暦寺の僧の長の人)になられたこともあった。親王の東国経営に当たって、信州の南朝方の一中心になったのは諏訪氏であり、興国・正平(1340-1369)のころ諏訪にご滞在のこともあったと推測される。

口碑によると正平7年(1352)宗良親王が諏訪に入られたとき、小萩祝武居光鎮が土豪(その土地の豪族)早出五郎・山田十郎等を説き、出早雄社を仮御所にして皇子を忍ばせ、のち東堀に御座所を設けて、そこにお移ししたと伝えられている。東堀の正八幡を柴宮と称するのは、この御座所を柴でしつらえたからだといわれている。

宗良親王を調べてみると、驚くことばかり。
南朝、北朝の戦の中で大鹿村を拠点に各地に転戦、諏訪氏もそれに従ったとある。
柴宮に滞在したのは、その中でも一番最初の段階ではないでしょうか。



ここで家紋の話に触れたい。
まず小井川の宮坂家、すなわち我が家の家紋を紹介すると、
表紋が「丸に 抱きオモダカ」、裏紋(替紋)が「丸に 三階松とオモダカ」である。

戦国時代、戦に行って討死をした時に、家の名誉を汚すことがないよう、
表紋ではなく、裏紋を背負って出かけたといわれている。

 
      小井川の宮坂家の家紋。左から表紋、裏紋


今回の皇室にかかわる彫刻にも、皇室の紋、天皇家の紋にかかわる曰く因縁がよくわかった。

皇室・皇族の家紋は、菊花紋、桐紋、日月紋があり、
菊花紋は鎌倉時代に後鳥羽天皇・上皇(第82代1180-1239在位1183-1198)が、
ことのほか菊花を好み、自らの印として愛用したといわれる。
その後の天皇も継承し、十六八重表菊紋が皇室の紋として定着。
1869(明治2)年太政官布告で公式に皇室の紋とされた。

桐紋は五七の桐。菊花紋の替紋であり、日本国政府の紋章である。
明治時代の10円金貨の裏や、現在の五百円硬貨の裏にも見られる。
日月紋は菊花紋以前の皇室の紋。日は天照大御神、月は月読尊とされる。
明治維新の官軍の錦旗には日月紋が入っている。

つまり、表紋に菊花紋、副紋として桐紋、そして日月紋はそれ以前の由緒ある紋なのであり、
東堀八幡宮の彫刻は、全てを知った中での彫刻であることがよくわかる。
彫ったのは立川や、伊藤儀左衛門より前の人ではあるが、
こんな紋を彫れるには諏訪の高島藩の意志なくしてできるものではない。
棟札もなく、その由緒は不明である。


東堀八幡宮の彫刻を写真とともにみていく。

本殿正面の虹梁とその上の鳳凰。
鳳凰は青桐の木に住む、とまる、と言われ、虹梁に桐が彫られている。


鳳凰と桐は一緒に彫られているものがよくあるが、
正面の虹梁に桐が彫ってあるのは大変珍しい。

 
鳳凰の拡大                            桐左

 
 桐右                       正面の蟇股(かえるまた)と錦旗8本

 
左面の蟇股とその中の松と錦旗             右面の梅花の中に桐と日月紋
錦旗には菊花と日月紋


  
懸魚の左右の鰭(ひれ)にも    降り懸魚(左)にも一輪の菊花      右の降り懸魚
菊花が見える




彫刻について、書籍「おかや歴史の道 文化財めぐり」からの抜粋も紹介する。
 
唐破風の菊花紋章

神殿についてみると、寛保元年(1741)再建と考えられる本殿は、一間社流造で屋根は杮葺(現在は銅版葺)、本蟇股を用い、向拝柱の木鼻の彫刻など見事である。拝殿は棟札によると、明和3年(1766)に大工棟梁山田清五良信金、彫物師伊藤儀左衛門によって再建された。儀左衛門は大隈流の巨匠で、その彫った向拝の竜の彫刻や、縁下の三手先の組物などはすばらしい。

柴宮の社殿建築は宗良親王のご滞在説との関連から、幾多の特殊性がみられる。本殿側面の蟇股や扉の上に彫刻された錦の御旗、拝殿正面の千鳥破風や唐破風の十六弁の菊花紋章、神楽殿の丸柱・幕・大提灯につけられた菊・銅の紋章などである。

宗良親王ご滞在に関するものとして、
柴宮付近より出土の室町時代のものといわれる双雀鏡や、東堀に残されているいくつかの字名もあるといい、「おかや歴史の道」に紹介されている。(以下に掲載分を紹介)









 
                                         (2012年7月20日)