所長コラム  正博の彫り出しもの(木彫)アラカルト     
其の拾四・啄斎の木造不動明王坐像
   
1月26日、岡谷市の本年度の文化財防火デー(昭和24年1月26日に、現存する世界最古の木造建造物である奈良の法隆寺の金堂が炎上したことに基づき制定されている)の訓練は、横川公会堂、真秀寺で実施された。

その後、真秀寺の、廃仏毀釈の時に神宮寺から難を逃れてきたという欄間や木造不動明王坐像を
見させていただいた。


          不動明王坐像

立川和四郎冨種、啄斎(1817/文化14年─1887/明治20年)39歳、安政2(1855)年の作で、ケヤキ一本から、脇侍の矜羯羅如童子(こんがらどうじ)、制多迦童子(せいたかどうじ)を含めた三体を掘り出していると言われている。
※矜羯羅如童子、制多迦童子は不動明王に使える八大童子のうち最もよく知られる二童子。
制多迦童子の「多」の文字は「托」の手偏ではなく口偏の文字を用いるものもある。
八大童子とは他に恵光童子(えこうどうじ)、清浄比丘童子(しょうじょうびくどうじ)、恵喜童子(えきどうじ)、烏倶婆誐童子(うぐばがどうじ)、指徳童子(しとくどうじ)、阿耨達童子(あのくたどうじ)。

 
  中央に不動明王、脇侍は左が矜羯羅如童子、制多迦童子

 
   矜羯羅如童子              制多迦童子


岡谷市の文化財展図録の解説には、
「ノミの使い方に特徴があり、普通は斜めに使うものを真直ぐに打ちつけて彫りあげており、
光背のカルラ炎(鳥のくちばしの形)にもよく表れている」とある。

不動明王坐像は体だけでも1m20を超えそうなほど大きい。
割れがないのも、よほど乾燥させた良材を用いたかと思われる。
啄斎の作品の中でも大きさは最大級のもので、その出来栄えといい迫力といい、
深い思い入れや信仰心がうかがえる。


 
                                          (2012年3月2日)