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7月31日(日)、文化財の研修に岡谷市内をまわった。
昼休みに諏訪市のE・Fさんが、
我家のお宝を見て下さいと丁寧にタオル地のハンカチに包まれた恵比寿大黒を取り出した。
下諏訪町に住むお母さん(Fさん)の所持するものだという。(写真)
“驚愕”!
今まで見たことのない端正な丸みをおびた顔に驚きながら下面を見ると、
なんと「湘蘭女刻、明治41年」とあるではないですか。湘蘭44歳の作。
50年来の立川収集家のA・Yさん、A・Uさんもびっくり、初見・・・・。
聞けば、かつて角間近辺にお住まいだったとか、
書店を経営していたお父上の商いと何らかの関係があったか・・・、
とのことだが、一組あることがわかれば、きっと他にも何組かいずれお目にかかれるかと思う。
しかし、この女性らしい彫のきめ細やかさと、書を習ったという銘の流れる字の素晴らしさ、
昨日彫ったかと思えんばかりの木肌のきれいさは、ずっと箱の中に保管されていたか・・・。
眼福の一日でした。
湘蘭の息子、冨尚の恵比寿大黒も近々紹介するが、
なんとなく似ているのは親の作品を常に見ていたからか・・・。
立川松代(湘蘭)の恵比寿大黒(右の恵比寿、左の大黒ともにH79mm W50mm L50mm)
左側面
右側面
下面
湘蘭(1864/元治元年~1943/昭和18年)については、
以前、本コラム其の六・虎で触れたが、
「立川流の建築」(諏訪史談会・昭和47年発行)の中で
著者の細川隼人先生が以下のように記しているので紹介する。
富種には三男二女があった。(中略)・・・・三女松代は父について彫刻を学んだ。父は常に松代に向い「彫刻の技は刀にあり、刀鋭利ならずんば手腕を施すに由なし」と教え、絶えず刀を磨き、遂によくその奥義を極めた。松代は十才で継母につかえ、十六才で高島藩の家老千野負暄について書を学んだ。湘蘭と号して名声高く、松本市外薄宮の山車や、湯の原の山車は富種の作ではあるが湘蘭もまた幼にして手伝ったものである。
湘蘭の一人息子富尚も彫刻に腕を振っている。床置の岩に亀は最も得意とするところであった。また、その一子義明は東京美術学校木彫科を卒業して現在彫刻界に活躍している。
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湘蘭女史の不思議――
①旦那様はいったい何という名前でどういう人だったのでしょう。
立川を名乗るということは養子だったのでしょうか。
②教念寺の近くにお住まいで、そこで彫っていたのでしょうか。
③東京の学生生活ははたして・・・。
23歳で冨尚を生んだということは、学生結婚に近いのでしょうか。
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