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「マーチャ、居る?」
事務所の扉をあけて、入ってくる。
ふっとできた合間によく顔を出して、いろいろな話をした。
シラネアオイを新潟の山中へとりに行ったとか、
シャラ(夏ツバキ)とお釈迦様の沙羅双樹とは違うとか、
自分の庭も山野草や遠くから運んできた大樹を植えて、鳥の中継所になるような庭をつくった。
ある時、インドネシアのお土産だといって、妙なものをいただいた。
重ね合わせた銅版の断面(厚さ25mm)が花の柄(220mm×235mm)になっていて、取手がついている。
汚れたロウがかなり付着した、お世辞にもきれいとは言えないしろものである。
何やら熱を加えて温かくしたこの型を蝋で塗られた布にあてて、
とかしたところに染料をしみこませて、布の模様とする一種のろうけつ染めの型らしい。
妙なものを妙な人が妙なものばかり集めている私にくれたものであり、
以来、事務所の書棚に飾ってあるが、興味をもつ人は皆無である。
平成22年3月18日、8時23分。亡くなってしまった。
永田修平氏、59歳だった。
まさか亡くなるとは思わず、カタミになるとも思わなかった。
永田さんの広大な会社の駐車場は我事務所の道を挟んだ斜め東北に位置し、窓からよく見えるが、
駐車場に作業服でよく似た体格の人がいると、本人かと思う時がたびたびで、
なんとも切ない思いである。
1988年、岡谷JCの理事長をさせていただいた時に、
2001年の岡谷の街の姿を描こうと2001年街づくり委員会ができて、
永田さんが委員長を務め、現在の岡谷の今井竜五市長も時の副委員長だった。
今や時すでに2012年、折り返して丁度倍の時間が経った。
そのとき描いた街にいくらかでも近づいたのかと思う今日この頃である。
戒名は鴻然院隆修旺清居士。
茅野の真徳寺(金田照俊住職)に、
書家上條信山と永田家とおつきあいがあったとのことで信山書による墓石に眠っている。
合掌。
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